『「平等」は神聖な(そしてつかみどころのない)政治的価値であり、「カジュアルさ」は、発話、服装、飲食、インテリアデザイン、その他の実践において物質化・商品化される社会行動の意図的様式を指す。』(「Coffeetalk: Starbucks and the Commercialization of Casual Conversation ” Gaudio, 685)
そんなスモールトークに垣間みえるメタフォリカル・カンバセーションを手っ取り早く擬似理解したければ、ジム・ジャームッシュの『Coffee and Cigarettes』を観るとよいでしょう。足掛け17年かけて集めた、2~3人の人間が大体取るに足らない様々な話題について語り合う会話を追った11のヴィネットのコンピレーションですが、ただただトークシーンを寄せ集めたライトムービーではなく、その本質は『登場人物間の関係の曖昧さやシーンにおける気晴らしの欠如が「コーヒーやタバコの消費が共同体にあることで変わる社会的気まずさを生み出している」という問題』を提示しています。このようなシーンは、社会における迂闊で気軽な関係に対する根本的なコメントを指し示しているように感じます。
『Coffee and Cigarettes』では会話中のほとんどのショットが外側の主観的な視点に固定され、その場に参加させられているかのような方向性のないアイコンタクトを強要されます。視聴者は対話不可能な登場人物の視点に放り込まれるような視覚的ストレスを感じます。そうしたことからコーヒーを注ぐクレーンショットでは「会話から距離を置き開放されること」を示しておりブレイクを擬似体験させられます。会話の焦点が定まっていない状態を、キャストのわずかに躊躇する握手のクローズアップで、ふたりの会話者の物理的な空白=心理的距離を感じさせ、ズレまくったそれぞれの人格がさらに強調されています。