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Toru Arima

Toru Arima

Markup editor-in-chief, art director and designer, president of doorknob.design

Dear the world and someone your lover.

“Andre Maurois” wrote that it is important for people to ‘think with their hands’. Thinking with words can convey more than what is written between the lines and in the margins of the text, it can convey emotions, feelings and atmosphere. It is the real words and voices that remind us that true intelligence and trust are important, not exaggerated culture, pleasure and self-affirmation.

Toru, Arima     2,september 2019

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text and photograph Toru, Arima
Smalltalk

『「平等」は神聖な(そしてつかみどころのない)政治的価値であり、「カジュアルさ」は、発話、服装、飲食、インテリアデザイン、その他の実践において物質化・商品化される社会行動の意図的様式を指す。』(「Coffeetalk: Starbucks and the Commercialization of Casual Conversation ” Gaudio, 685)

 

スモールトークやその周辺のとりとめのない会話を取り巻く複雑な問題、そしてそのような問題が特定の社会について何を語っているかについてのメタ・コメントを観察したければ、近所カフェにでも足を運んで人々の会話に耳を傾けてみるとよいでしょう。もちろん多くの場合、普段の他愛もないブレイクタイムにそうしたスパイまがいの集中力を発揮する機会などありもしないでしょうし、ただ無心にコーヒーを口に運び、ただぼんやりと過ごすのが関の山でしょう。

そんなスモールトークに垣間みえるメタフォリカル・カンバセーションを手っ取り早く擬似理解したければ、ジム・ジャームッシュの『Coffee and Cigarettes』を観るとよいでしょう。足掛け17年かけて集めた、2~3人の人間が大体取るに足らない様々な話題について語り合う会話を追った11のヴィネットのコンピレーションですが、ただただトークシーンを寄せ集めたライトムービーではなく、その本質は『登場人物間の関係の曖昧さやシーンにおける気晴らしの欠如が「コーヒーやタバコの消費が共同体にあることで変わる社会的気まずさを生み出している」という問題』を提示しています。このようなシーンは、社会における迂闊で気軽な関係に対する根本的なコメントを指し示しているように感じます。

コーヒーやタバコの介在する会話の場に対して「食事」はより厳格であり、相互に平等や社会的地位の共有という概念があるためお互いに満足や見返りを求めることから、食べ物の価値を超えた負債を生み出すことがあります。それは食べるという行為と思考とのコンタクトがもたらす、会話の質そのものでもあります。

コーヒーやタバコはブレイク(間)を作り出すことで、会話にリズムを生むかのように見えますが、これらはすぐに消費されるため会話も表層的であり深まっていくことはないかわりに、社会的規範や作法の外側にあり見返りを求められることもないために何かルーズで取り留めのなさを感じさせます。すなわちそれらは消費されれば会話はそこで終わりますが、間の不安を回避するためにすぐに補充をしようともします。これらはよくもわるくも習慣からくるもののようです。

『Coffee and Cigarettes』では会話中のほとんどのショットが外側の主観的な視点に固定され、その場に参加させられているかのような方向性のないアイコンタクトを強要されます。視聴者は対話不可能な登場人物の視点に放り込まれるような視覚的ストレスを感じます。そうしたことからコーヒーを注ぐクレーンショットでは「会話から距離を置き開放されること」を示しておりブレイクを擬似体験させられます。会話の焦点が定まっていない状態を、キャストのわずかに躊躇する握手のクローズアップで、ふたりの会話者の物理的な空白=心理的距離を感じさせ、ズレまくったそれぞれの人格がさらに強調されています。

 

一見するとコーヒーやタバコの介在による真剣で純粋な会話の欠如は、時間「の間を埋める」習慣の産物であり、阻害要因であるという一般的な意味合いの結果であり、一方で食事は親しい人たちの間で共有されより深いコミュニケーション感覚を持つことからより信頼するものであるように感じさせますが、クラス感覚のない日本人からするとこれらは理解が難しいものであって、正直なんだかピンと来ない感じは否めないでしょう。

個人的には、おそらくスモールトークとはもともとそのようなものであり取り留めのない宙吊りの時間でしかなく、ぼくたちがその会話の外宇宙にいるか内にいるかのいずれかであるという事実だけがある、と思っています。そしてそこに深さや本質が一見ないかのようにもみえるけれど、会話者の行為やことばの端々、指先の動き、あるいは声のトーンが、その背後にある真実に触れるためのヒントを与えてくれていて、それを解読することにこのゲームの面白さがあるのではないかと思います。永遠に分かり合えないズレまくりの感じがむしろ切なくまた笑ってしまうのはぼくだけでしょうか。言葉少なさからくる気まずさを埋めわせるための消費なんてくだらなさすぎるかもしれませんが人とは精々そんなものです。

 

もしそうした気分を超えたブレイクタイムを擬似体験したいなら、躊躇なく近年における最高傑作と勝手に位置付けている、ナヴォット・パプシャド監督の『Gunpowder Milkshake』のダイナーのいくつかのシーンを推薦します。ダイナーで帰ってこないママを待ち、殺しの依頼を受け、ママとミルクシェイクを飲む。主人公のサムにとっての世界が凝縮したこれらの時間はミルクシェイクタイムであり、もう一方の時間はガンパウダータイムです。サムにとってはそれだけで手一杯ということであり、ひとりの人生においてやるべきことは期待するほどそう多くないと教えてくれます。それは悲しむべきことなどではなく、むしろ生きる目的(あたかもそのようなものがあるかのような)という嘘(思い込み)から開放されて大いに勇気づけられもします。

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