2001年、自転車に乗って起伏が激しい道を1時間ほどかけて五島の森の先の無人のビーチに通う。またいずれかの冬、氷点下の夕方のオホーツク海をただ散歩するだけのために、年末年始を雪に閉ざされた暗い街でただ1週間を淡々と過ごしてみる。何をするでもない「ただ」のそのような時間は今も続いています。それ以前の体験に紐づいていてそれはさらにその先のなにかに紐づいていますが、記憶として事実だけは再編集されながら持続される一方「光」の体験はそうした記憶とはどこか異なります。観光のようなエピソードは、一般的にいわれる「美しい風景」と同様、対峙的で事実を主体的対象として扱うことに少し似ています。一方で「光」の体験はその外にあります。つまり言葉は人の外にあり「光」の体験は言葉の外(外縁)にあります。エリック・ロメールの『冬物語』の冒頭は過ぎた夏のシーン(ブルターニュの浜辺)の淡い『光』の儚さや美さを思い起こさせますが、戯れる恋人の姿がブルターニュの浜辺のアンビエントな光によってフィルムに焼き付けられ、それらを人工光による投影で再現された(ような)フレームの目視体験(暗箱の体験)ともすこし異なります。
おそらく、冬の日、ひとけのないプラットホームに弱い冬の陽がさしたなかを雪がゆっくりおりてきた時だけ刻印される、エピソードとは異なる深淵なる何か。再編集される思い出などより大切な何か。
それ、大切です。